Shibuya 1000_006 「シブヤ東西合戦」
2014年3月13日(木)18:00~
@渋谷ケアコミュニティ・美竹の丘2F多目的ホール
03 「写真で見る、渋谷東西タイムリープ」
佐藤 豊(写真家長)
プロフィール
佐藤 豊(さとう ゆたか)
日本写真協会会員。1951年、渋谷「神泉円山」「弘法湯」に生まれる。日本大学芸術学部、東京写真専門学院を卒業後、商業写真の仕事に就く。ライフワークとして変貌する渋谷の郷土写真を撮影、収集。渋谷区郷土写真保存会副会長、国学院大学渋谷学渋谷研究室顧問。写真集、雑誌、テレビ等を通じ郷土文化を伝承。
こんばんは。私は地元に生まれ、地元で育ち、地元の記録を取り続けてきたという、個人的趣味でやっているような話です、本業は商業写真ですので写真を撮ることには自信があるのですが、渋谷の東西という今回のテーマにどこまでお役に立てるかわかりません。今日のご要望は、若い人向けに、写真がいっぱい見たいということで、とにかく数をたくさんお見せすることができれば、皆様が渋谷を研究されるときのお役に立てるかと思います。私の拙い説明ではありますが、見ていただきたいと思います。
■江戸・明治期の写真で見る渋谷
これが今の渋谷です。これから一気に、江戸時代に移ります。これが江戸時代の宮益坂の地図です。
渋谷駅の東側宮益坂側というのは、基本的には、お寺と神社です。これが集客力となって、発展していったものです。これは、明治になります。明治も同じようです。宮益坂には弘安9年建立のこの写真の妙祐寺という歴史のあるお寺がありましたが、地下鉄ができるときに、なくなりました。今は全部移って、世田谷区の烏山というところに移転しています。地元の檀家の人たちとは、お彼岸に妙祐寺に行くと会えます。
この写真は、青山学院辺りの明治時代の下屋敷です。下屋敷ですから、当時、中は農業試験場のようになっています。これは青山学院があった場所です。これは当時の茶店です。これが渋谷川です。真ん中に橋が架かっています。これが今のビックカメラの前のところです。正面奥が宮益坂です。明治の写真です。右側これが渋谷小学校です。
これは江戸時代の渋谷の絵です。真っ黒だったのですが、デジタルで修復しました、宮益坂からみた道玄坂方向だそうです。富士山も見えます。あとで渋谷から見える現在の富士山の写真をお見せしますが、富士山の位置からここは間違いなく宮益坂からです。
次に西側、道玄坂側に移ります。実は真ん中の部分、現在の渋谷駅前、何もないところは、さっき皆川さんが言われたように、川が合流するところで、雨が降るとぬかるみになりずっと何もつくれない場所でした。ここは江戸時代には全く使えない場所です。さっき言われたように、近年になって、水路を改良し暗渠化したことによってこの場所も使えるようになります。これも明治ですが、明治のときもまだ建物は少ないです.駅はこっちの恵比寿方面にあります。これも、ここは地理的に水が出てしまう事も理由の一つにあります。
この地図には、現在の駅前の所に「あやめ池」があります。この池は大雨が降ると何回も氾濫しました。祖母の話では、天気だと土埃が舞い雨が降ればぬかるんでどうにもしようがないところだと言っていました。これが川が合流する起点のところで、このような事から現在の駅前の付近は当時は発展しませんでした。
■神泉にある私の家・弘法湯
次は、私の地元、神泉にいきます。ここにはたくさん昔話が残っています。昔話ですが、創作には話しの謂れ、元ネタがあって作っていると思います。子どもの頃もたくさんの昔話しを聞き育ちました。後に、自分で話しの裏をとっていきました。すべて水の話ですが、弘法湯に話しがみな繋がります。弘法湯は私の家です、ここに江戸時代に弘法大師の像を背負った一人の僧が現れ、そこに湧いていた湧水を見て、この湧水はとても良い水であると言い独力でその横に浴室をつくり、これに皆で入ると健康に良い、元気が出る、癒されると、村の人に言って施湯を行い背負っていた仏像をおいて、立ち去ったという話が伝えられています。この話がどんどん大きく広まっていきます。私が学生時代まではこの仏像がありましたが、残念ながら泥棒により紛失しました。この写真は、明治の頃の弘法湯の写真です。左側にあるのが、神泉館という料亭です。明治18年に私の曾祖父が弘法湯の権利を全て譲渡され、買い取り、弘法湯の隣に料亭「神泉館」を併設しました。これが、「神泉館」料亭の入り口の写真です。神泉という名前の由来は、この湧いていた湧水の水の名前です。この水の名前を「神泉水」といいます。この湧水がどれくらいの大きさかと言いますと、これが湧水の前に立つ父親で、湧水の湧いていた場所はこれくらい大きかったです。私が子供の頃まではありました。明治の頃の神泉館がどれくらいの知名度があったかというと、こどもの頃、神泉館が円山発祥の元と言われ、嘘だろうと疑っていましたが、ここに明治時代の新聞があります。日本橋や深川など東京の有名どころが紹介されている中に、「弘法湯、神泉館」が載っています。渋谷の中では恵比寿の「恵比寿館」1軒と「弘法湯、神泉館」の2軒だけが出ており、当時多くの人に知られ相当に有名だったことを知ることができます。
これが、練兵場です。何故、「弘法湯、神泉館」が花街の発展に貢献したかというと、弘法湯は昔から大山街道を行き交う人に利用され知れ渡っていましたが、代々木に練兵場ができ、近隣に軍隊関連の施設が集まり出すと、神泉館は軍隊関連の接待にも活用され近隣もどんどん賑わっていきます。神泉館から始まった円山花街は社交場としての交流がどんどん発展していき、道玄坂を下り現在の東急プラザの裏あたりまで広がっていき、円山から広まった花街の外燐の一部は色街になっていきました。
「色街」と「花街」の違いわかりますか?
当時私の曾祖父が風紀の乱れを感じ取りこれはまずいと、治安を立て直そうと言うことから、明治32年に料理組合を組織し、後に大正元年に二業組合となり、大正3年に三業組合という組織を作り組合長となります。この三業組合の組織において、行政との話し合いの中で花街の指定地として円山「荒木山地域」が許可地となり、正式に円山が花街として認定されます。色街系の道玄坂下の方にあった店も正規の営業しているところは、荒木山の指定地に入ってきます。そうでないところは、浅草の方に移動されたという事が記録に残っています。
こちらには弘法湯が、どういうものだったという、大正時代の文献の記録です。祖父や祖母から幼い頃に聞いた話でしかないので、大人になり裏をとって、やはりそうなのかという風に子どものころに聞いた話が思い出されます。こちらが家の大正時代の神泉館です。この写真は本や雑誌に掲載されました。これが大正時代の芸者さんです。この写真もいろいろなところに出しているので、多分見ている方もおられると思います。
今回これは父のアルバムからちょっと抜いてきてというか、借り出してきたものです。うちの庭「神泉館」で撮影されたスナップ写真の芸者さん、そして仲居さん。次のこれが私の祖母と神泉館の従業員と中庭です。
これは私が子どもの頃に遊んでいた弘法湯。私は大学出るまでは弘法湯もやっておりました。この湧水も使っていました。その当時の道玄坂です。アーケードが全部あります。道路の上には電線がいっぱいありますね。これがトロリーバス。トロリーバスを知っている人は、ほとんどいないですよね。
次の写真、ここに“三業”って書いてありますね。鳥居形式の看板、かなり後まで残っていました。脇にある床屋さんの看板に散髪代が書かれています。この当時は220円でした。ここの通りが、円山の本通りです。少し入った右側にある建物、これは“見番”といい、芸者さんたちが練習する場所がありました。ここで踊りを練習したり、お作法を習ったり、三味線を習ったりするところです。十数年前になくなってしまいました。この文化は是非残したかったですけども、なかなか行政はこのような文化の継承には理解は難しいですね。これが現在残っている弘法湯の石碑です。ここに唯一こういう風に石に弘法大師像が彫られ残っています。
■大正から昭和初期の写真で見る渋谷
大正の渋谷駅に戻ります。大正の渋谷駅は、市電がもう入ってきています。これが、昭和9年の東横ができた頃の写真です。空撮です。渋谷駅のところは、まだ広場になっていません。ここに、さっき言った渋谷小学校あります。ここに渋谷川が出ていて、まさに東横が渋谷川をまたいでできているのがわかります。
ここがスクランブル交差点の現在ある場所です。駅前広場がないので、宮益坂からきた電車が左に入っていくのがわかります。この入ったところが渋谷駅です。こう入っていきます。広場がないので、細いです。これが渋谷駅の入ったところから見た写真です。これは正面から見た写真です。真ん中に“茶”と書いてあるのが梅原茶園というお茶屋さんで、私の写真友達です。次の写真これも梅原さんのお茶屋さんが写っていますね。
これが当時の道玄坂。右に大西屋さんの看板が出ています。今もここに、写真にある大正建築風の建物が残っています。朽ち果てそうな状況です。
次の写真は渋谷駅、玉電と地下鉄、井の頭線の昔の写真です。これは玉電が下りてくるところです。これだとよく分からないので、次のこれを見てもらうとわかります。ここに地下鉄。ここに井の頭線のトンネルが見える。ここに、玉電が入ってきて、3つがこの場所には入ってきているということです。まだ、地下鉄は工事中ですが。
次のこれは明治45年。今のマークシティの道玄坂出口を出てちょっと上ったあたりです。そこにすでに「芝居小屋」、今でいう劇場が明治45年につくられています。これは地域に回遊性を生むひとつでした。昔の人のほうが、頭がよいですね。道玄坂の上に人を引き上げて、ここで舞台を観て、弘法湯のお風呂なり、花街で遊んで道玄坂を巡りながら下り帰るという、そういう回遊する形を作り出していたのですね。この次に、さっきお話しいただいた皆川さんの話にもありましたが、百軒店ができます。開発当初、関東大震災で被災した老舗を誘致して入れるのですが、当初は繁栄したようですが、復興してしまうと、老舗は、元いた自分の地域に戻りますので、その形態は長くは続きませんでした。でも、そのあとの変貌が面白い、百軒店は大人の街になって繁栄していきます。
これは私が小学校時代の百軒店。当時3つの映画館がありました。2番館ですが日活、松竹、東宝系の映画が上映されていました。この後、正面の映画館はストリップになり、どんどん大人の街に変わっていきました。今日は若い人が多いと言う事前のお話でしたので、多分若い人は知らないと思いましたが、会場に来て年配の参加者の方も多く見受けますので、知っている方も多いかと思います。映画館の看板に小林明、石原裕次郎もいます。懐かしい名前だと思います。2番館ですが、結構ここは有名でした。
これは昔の百軒店。ここにも鳥居形式のアーチがありました。このアーチをくぐると平等になるという宗教系と同じ解釈ですが詳しいことは専門ではないのでわかりません。これは何度も架け替えられ、最近また架け替えられて新しくなりました。
■戦後の写真で見る渋谷
これが昭和20年の終戦の頃の道玄坂です。この写真の左側に見えるのが、現在の東シネタワー。109の前です。道玄坂は一部を除いて、ほぼ焼け落ちています。この辺が、さっきの百軒店の燃え残ったとこです。次は、戦争が終わり間もない時期に米軍が撮影した航空写真です。代々木公園の部分にワシントンハイツができています。渋谷駅近辺にはまだ建物が少なく、焼け跡だらけです。このワシントンハイツの話をすると2時間はかかるので、今回は話しません。
これは駅前の闇市。正面のところが109です。これは、昭和24年の駅前広場。うちの祖父の弟が当時行政にいました。駅前広場整備を一生懸命やったとよく聞かされました。次の写真は駅前にあるビルの移動工事の写真です。せっかく移動したのに、その数年後には壊すという、このビルは悲しい運命でした。
これは、昭和26年の渋谷駅です。改札前に都電の乗り場があり、今のように乗り換えが不便でなく、非常に高齢者にやさしいですね。これは、井の頭線のほうも同じです。これは、渋谷駅が広がった時です。これはまだセンター街ができる前ですが、ここを工事して、センター街ができてきます。このあたりは、センター街ができる前は住宅地でした。この写真の後方、このS字カーブになっているところが、現在の公園通りです。この後方はすべてワシントンハイツです。
これがさっき言っていた、トロリーバス。これはよいです。公害がない。電気バス。現代版で復活してもらいたいですね。これも駅前。これは井の頭線の渡り廊下ができるとき。これは昭和35年くらい。一通り完成しています。でも、残念ながらまだ東横南館はない。今は、こうなっています。これが次にどうなるか、未来は私もタイムリープできないので、これから先にどうなるかというところが面白いところですね。
続いて、昭和40年代の交差点、そして今のスクランブル交差点。今度、東側にいきます。これは、渋谷警察署のところです。東横が空襲で燃えています。これは、宮益坂下。これは、都電が来ています。これは、何にもない。ここに宮益坂ビルディングができますが、さっき言った妙祐寺がこの付近にありました。そして、道玄坂ビルディングができる。当時は低い家並みですから大きな壁のようで景観的には邪魔だな〜と、なんとなく思いますね。写真の左側、これが現在のヒカリエがある場所です。次のこれが、仁丹ビルという、宮益坂にあった有名な建物です。長く宮益坂上にありました。手前に都電が見えます、そしてこれが現代ですね。
今度、ヒカリエができていくところ。これは、無くなってしまった東横屋上からのパンテオン東急文化会館。このパンテオンがあっという間に壊されていき、次は桜丘方面からも解体が進み消える寸前。そしてヒカリエになっていきます。「はい」できました。これは雑誌の仕事で表紙に使ったヒカリエの写真です。次に246ができていくところと異様に長い歩道橋。そしてこれは、宮益坂と246、六本木方面です。
残念ながら「そろそろ時間がなくなってきました」というサインが出ました。まだ半分も紹介できていませんが、残念ですが最後のところに一気に飛びます。
■時代の先をいく渋谷の子
若い人は少し前の昔も見たいと思う人がいると思います。ちょっとだけサービスです。これ、渋谷名物のガングロそしてギャルサー。以前に彼女たちと話しをする中で、飲み物をあげたところ、「オヤジ気が利くじゃん」って言われました。仲良くなると結構気さくです。これは、読者モデルです。区役所の付近で撮影しています。今も渋谷の町中では年中撮影していますね。次の写真は、これは建築系の松下さんが喜びました。母校の松濤中学です。日本で戦後作られた新制中学のモデル校です。当時の松濤中、昭和26年当時1年生の女子生徒たちの写真です。年配の方で区外の学校で先生をされていたという方にこの写真をお見せした時、「なんとおしゃれな」「え、信じられない。革靴を履いている子がいる」と言われ、「意味わかんないですよ」と言ったところ、写真に写っている人たちと私は年齢が同じくらいですが、「当時の私たちは、多くがズックで、まだ下駄もいました」って。渋谷の子はやはり違うと言って関心をしていました。
最後に、時間がもう少ししかないのですが、以前にshibuya1000で東横線地下の工事現場の線路で深夜のファッションショーをやった時の写真をお見せします。時間がない中で、トラブルもあり大変でした。当時参加されたshibuya1000のスタッフの方は数年前ですが懐かしい思い出ですね。
■変わりゆく渋谷と街の記憶
いよいよ最後に、今、唯一動画で30年代の渋谷駅南側東急本社付近を見ることができる映像があります。ここでは動画はお見せできないので、写真になりますが。チョットその前に、これは当時の246と東急本社の写真です。東急本社があって、今はセルリアンタワー。そして当時この付近で撮影した私の写真です。これは昭和29年です。私の幼稚園が東急本社の前にありました。出来たての東横をバックに父が幼稚園の裏から私を撮った写真で、ここに地下鉄が見えます。今はこの場所からは何も見えません。次の写真は同じあたりから撮影した20年くらい前のものです。マークシティが建つ前なので地下鉄が見えます。
最後になりますが、先ほどお話しした映画のスナップ写真をお見せします。ここに石原裕次郎がいます。多分、年配の方は皆さん知っていますよね。この映画は石原裕次郎主演の映画で題名は「街から街へつむじ風」、この後ろが昔の東急本社のビルです。この映画に昔の東急本社付近が出てきます。映画のエンドロールに、渋谷駅が写り、このトラックに乗って裕次郎が去っていきます。当時の様子をカラーで見ることができます。今、泉麻人さんと二人で、少々マニアックな見方ですが渋谷の写っている映画を探して喜んでいます。彼は、DVDマガジンに昔の映画の解説原稿を書いています。この映画もちょっとレアな物ですが、きちんと1シーン1カットで撮っています。映画の場面の後方に、現在ハチ公広場にある昔の東横線「青ガエル5000系」が走っていきます。きちんと電車が来るのを待って撮影したのでしょう。二人で見ていて喜びました。マニアックな話題で盛り上がっていると若い編集者に、「お二人の言っている事は時々、何だか全然わかんない内容があって、ついていくのが大変です」と、言われます。是非この映画、興味のある方は、一度ご覧になってください。
猛スピードでお話ししたのですが用意してきた3分の1も写真をご覧に入れることができず、すいませんでした。それでは、また機会がありましたらお会いしましょう。ご観覧、ご清聴ありがとうございました。
- 佐藤 豊(写真家)
Yutaka Sato
- @ケアコミュニティ・美竹の丘2F多目的ホール
- @渋谷Glorious Chain Café