shibuya 1000_010 「シブヤ合戦」
2018(平成30)年3月16日(金)18:00~
東京カルチャーカルチャー
02:トーク「私たちにとっての渋谷」
隈 研吾さん(建築家・東京大学教授)
では、私の記憶の中の渋谷ということで、まず個人的な話をしますと、実は僕は小学校の時から渋谷とはすごく縁があるんです。渋谷の記憶というと、最初は傷痍軍人なんですよね。皆さんの中に傷痍軍人を覚えている人はいらっしゃいますか。小学生の頃、ちょうど今僕が担当している渋谷駅東口のガード下のところに、傷痍軍人がいました。僕らは1954年生まれで戦争については実は知らないのだけれど、渋谷に行くと突然戦争の片鱗があって、渋谷というとそんなガード下の「陰な感じ」があります。先ほどの田村さんの話を聞くと、傷痍軍人の人たちがいたことはやっぱり軍の施設があったことと関係しているのかな…。そういう過去を考えますけども、その渋谷のガード下からバスに乗り、東京のいろんなところに遊びに行ったというのが小学校の時の記憶です。
その後、丹下健三の東京の代々木スタジアム(国立代々木競技場)ができて、それは僕にとって大きな衝撃でした。渋谷から歩くと公園通りがあり、今の公園通りと全く違う風景で印象的でした。丘の上の公園や体育館もあり、週末になると横浜から体育館まで泳ぎに行っていました。それくらいその建物がかっこいいと思っていました。さらに、小・中学校の時には原宿にも渋谷からよく歩いて行っていました。表参道は何にもないのだけれど、渋谷から行く道中だったので並木だけは立派な表参道を通過して明治通りまでずっと歩きます。その先に「社会事業大学」があり、そこで小学校の時のいわゆる塾や予備校みたいなことをやっていました。
僕が住んでいた横浜の郊外の日常から、渋谷に行くと東京が持っている一番ディープな影の部分があり、それをなんとか渋谷に残したいなという思いがとても強くあります。ある種近代的な大きなものをデザインしながら、そう言った影というものをどうしたら残せるかということを、今も長らく考えています。なかなかうまくはいかないんですが、そういうことを考えてやっていますね。
それからもう一つ、渋谷川沿いをガシャガシャと進んだ先でしょうか、加山雄三の画を渋谷川付近を舞台にして撮ったという話を知りませんか。加山雄三と青大将がその付近のビルの中に住んでいるという設定で、渋谷川の前の暮らしがめちゃめちゃかっこいいなと小学校の時に思い、もう一度あのかっこよさ、渋谷川の川沿いに住んでいるかっこよさを、なんとか取り戻せないかなというふうにも思っています。とりとめのない話になってしまいましたが、私としては、そんなところです。すいません(笑)。
(拍手)
川添:ありがとうございます。
続きまして古谷誠章さんです。古谷先生は、現在早稲田大学の教授をされている一方で、NASCAを設立されて、2017年から日本建築学会の学会長もお務めです。それでは古谷先生お願いします。(拍手)
古谷 誠章さん(建築家・早稲田大学教授)
こんばんは、古谷誠章です。
隈さんのお話にありましたが、僕もアコーディオンなどを弾いている傷痍軍人の姿を覚えています。それで、この渋谷の話に繋がるなにかワンカットをと言われ、写真を探しましたがそう簡単に見つからなくて…僕も確かにあの白装束の記憶、ありますね。
僕は、渋谷の話をしようとするとどうしても自分の話を詳しくしないといけないんです。先程大西会長が生粋の渋谷生まれ渋谷育ちと言われておりましたが、僕は実は世田谷で生まれ育って今でも世田谷に住んでいます。渋谷と関係なさそうに思えますが、僕が生まれたのは三宿なんです。三宿はどうしても一度渋谷に来ないとどこにもいけないところで、子どもの時からいつも「どこかに行く時」は「渋谷を経由してからどこかに行く」ということを意味していました。それで一時期本当に小さい時、松陰神社前に住んでいたこともあり、なんにしてもとにかく246の大橋の坂を登って、最後降りて渋谷に行くという生活パターンを送っていました。渋谷の中心には渋谷東横デパートがあり、さらに中学まで世田谷にいて、高校は外苑前の青山高校に通っていました。実は青山高校のすぐ前の外苑前にうちの菩提寺でもある梅窓院があり、何かというとここにも行くんです。さらにいうと、その近くに外苑があり、銀杏並木があるんです。僕が物心ついた時から。秋にイチョウが黄色くなると母にここに連れて来られて写生させられたものですから、しょっちゅう行っていた。つまり、高校生の時まではずっと、渋谷を通って外苑前に行ったり来たりしていたんです。だから、自分では渋谷周辺がホームグラウンドと思っているのですが、梅窓院はうちの菩提寺なんですが、、、知らないうちに隈さんが設計されてますね(会場で笑い)、、国立競技場も、知らないうちに隈さんが設計されることになって、そうなると僕も歩けば隈さんに当たるみたいな感じになって(笑)。そのくらいこのあたりには馴染みがあるんですよ。
今回は、渋谷では桜丘の開発のお手伝いをさせていただいています。(スクリーンをさしながら)皆さんあまりご存知ないかもしれないですが、この一角が桜丘になりまして、この付近に実は高校生の時にひたすら通っていた「マックスロード」という素晴らしい喫茶店があり、思い出の場所なんです。喫茶店は他にも、「ジニアス」というジャズ喫茶や、原宿の竹下口にあった「ロジーナ」というお店、青山通りにあった「レオ」、この4つがだいたい高校の時の必須アイテムでした。そして、なんとなくちゃんと帰ってくるときは帰ってくるけれど、ほとんどまっすぐには帰らず、ガールフレンドとこういったところをウロウロしながら代々木の体育館を通って帰ってくる、というようなことをしていました。そんな高校時代があったので、自分としては世田谷区民だけど渋谷がホームグラウンドだと思っているんです。その渋谷は、先程田村さんがすごい詳しく解説してくださって本当によくわかったのですが、今の渋谷駅が形成されてきた来歴というものが未だに残っている。それらが積み重なった状態であるというのは、決定的に地形的なものがあるからそれが損なわれないで残っているのだと思います。未だに、積み重なってきた形が辿れるような、そういう不思議な魅力がありますよね。そして、それらを全部どこかの再開発で全く根こそぎなくしてしまわない、根こそぎになろうとしてもその地形がある程度、過去を結びつけているような、そんな様にも思えます。実は因縁浅からぬこのマックスロードがある桜丘ということで、一も二もなくお手伝いしたいと思っていましたが、それを考えた時に、僕らの高校時代っていうのはもっぱら、公園通りがあって、プラザがあり、西武があったり、パルコがあったり、この辺りがなわばりでした。繁華街といえばセンター街、というような日常でしたけど、目的化されない、そういうような場所だったんです。
でも、今考えてみると、目的化されないような迷路状の、地形のある複雑な空間が最大の渋谷の魅力だと思います。オリンピックを境に街が分断されてくるわけですが、田村さんのお話にもあったように、1996年までほとんど変わらなかった街の形が、100年前から一挙に変わるようなある種のドラスティックな変換をするので、その中で渋谷の持っている全体の積層構造や地形と、それが組み合わさっている構造みたいなもの、それを踏襲していけないかなと今考えています。つまり、そこから先も何か来歴が積み重なっている感じが辿れるようなものがよいのではないか、ということを考えています。
さらにいうと、大学時代は早稲田に入学したため渋谷の地とは離れるわけですが、なんとなく建築を勉強し始めると、代官山などの地はひとつのメッカとされているので頻繁に訪れていました。渋谷からはちょっと離れた感じですよね。なにかこうポツンと、とんだ位置にあります。しかし、実際にはここにも地形が切れ目なく繋がった空間があります。そういう意味で今回のこの渋谷開発は、周辺のものに人をつないでいくような連続感、つまりは面として広がっているような、そんなものにもなるのかなと考えています。実は隈さんは原先生のお弟子さんですが、昨日雑誌の対談でアトリエ・ファイに行ったんですが、そこに行かれたことがある人だとその繋がりを実感されるかと思うのですが、普通は「ここにいて、ここにいく」という点で千切れている。ただ、八幡通りはなぜ八幡通りというかというと、金王八幡宮に来るための通りであるから八幡通りであり、これが実は、今回これが繋がっていく、そういう繋がりが目に見えるものになっていくきっかけになりはしないかなということを今考えています。先ほど言い忘れてしまったんですが、隈さんが言った代々木のオリンピック競技場は、紛れもなく僕が建築家になろうと思った大きなきっかけのひとつです。オリンピックの時にあの建物ができ、隈さんは水泳に行かれていたようですが、僕はもっぱらスケートのほうに行きました。冬にはスケートリンクになるのでスケートに行き、そしてジャネット・リンという札幌オリンピックで活躍した妖精のようなフィギュアスケーターがいるのですが、彼女がエキシビジョンの際にしりもちをついたところは、この辺じゃないかといったようなことをみんなで思い浮かべつつ滑りに行った記憶があります(会場笑い)。そんなことで、僕の私生活を詳しく暴露してしまいましたが、そういった繋がりのある渋谷であります。
川添:古谷さんありがとうございました。
続きまして、内藤廣さんにご登壇いただきたいと思います。内藤さんは長く渋谷の計画にも携わっていらっしゃいますが、最近では富山県美術館や周南市徳山駅前図書館も手掛けていらっしゃいます。それでは内藤廣さん、よろしくお願いいたします。
内藤 廣さん(建築家・東京大学名誉教授)
講演用に何かスライドを1枚準備するように言われたのですが、見せるスライドはこちらだけです(スクリーンに1枚表示)。これは2014年、今から4年前の写真で、ある日ハチ公前広場の近くで食事をした際に、その店のお手洗いに行くと血だらけの人がいて、大丈夫かと声を掛けたところ振り向いたその人がすごい顔をしていて。なぜかというと、ハロウィンのお化粧をしていたんですね。それから外に出てみるとこの写真のようなありさまで、とにかく裸のやつがいるわ、めちゃくちゃだったのですが、「あ、これが渋谷だ」と思いました。これがある限り渋谷は大丈夫だろうと、なんとなく直感的に思っています。おそらく、これを東京駅の丸の内駅前広場で開催したら大変なことになると思いますが、渋谷はなんとなく許してくれるという雰囲気があり、その部分が渋谷の命だと思っています。
古谷さんも隈さんも告白みたいなものをしてたので、いくつか思い出して喋ってみようかなと思います。昔、私より20歳くらい年上の宮脇檀という住宅設計の名士である建築家がいまして、学生時代に親しくさせてもらっていました。ある日宮脇さんが、「内藤、お前ストリップを観に行ったことがあるか」と言い出し、私はうぶでしたから見たことがないと返答したところ、「ストリップも観ないようなやつが建築できると思っているのか」と、訳のわからないことを言うわけです。ストリップか、どうしたらいいんだ、と考えた挙句、初めて行った場所が渋谷でした(会場笑)。これは告白ですね。要するに私の記憶では、渋谷っていうのはディープなまちなんです。
それからもう一つ、この中でご存知の方がいらっしゃるかわかりませんが、公園通りの山手教会の地下にジァンジァンという、この会場の半分程の小さなライブハウスがありありました。このライブハウスが60年代後半くらいからの文化の結節点といいますか、そこから当時の日本の文化が生まれてきたように思えます。先ほど大西さんから聞いたところ山手教会の上の幼稚園に通われていたそうで…それはあんまり関係ないかもしれないけれど(笑)。
そこでは、例えば高橋竹山という人が津軽三味線を演奏したり、松岡計井子がビートルズ全曲を翻訳で歌うといったことをやったり、白石加代子が詩の朗読をやったり。おそらく皆さんご存知ないと思いますが、津軽出身シンガーソングライターの三上寛が絶叫のフォークをやったりする、そんなすごいライブハウスがあったんです。あのデビュー前の井上陽水も中島みゆきもライブをやったそうです。そういうような場所が今の渋谷の中にほしいなと思っています。広くなくていいので、文化の結び目みたいなディープな場所が一つほしいですね。当時は渋谷にジァンジァンがあり、新宿にピット・インがあって、やさぐれた学生は大体どちらかに行って時間を潰すという感じがありました。今はピット・インもかつてのほどではないし、ピット・インの二番手であったDUGも、この前ってみましたが昔程のパワーはなくなっていました。今日、この会場のどこかにはお金持ちの人がいると思うので、あるいはお金持ちの東急という企業の人もたくさんいると思うので、とにかくそういう場所を作ってください、お願いします(笑)。以上です(拍手)。
川添:内藤さんありがとうございました。
続いて、先ほど申し上げたとおり本日欠席になってしまった赤松佳珠子さんよりビデオメッセージを頂戴しております。赤松さんはCAtのパートナーで、流山市立おおたかの森小、中学校などの作品を手掛けていらっしゃいます。それでは、5分程度ですが、皆様ご覧ください。
ビデオメッセージ 赤松 佳珠子さん(建築家・法政大学デザイン工学部教授)
CAtの赤松と申します。
今日はshibuya1000の対談を非常に楽しみにしていたのですが、どうしても出られなくなってしまいまして、本当に申し訳ありません。内藤先生やみなさん、隈さん古谷さんと一緒に議論することを非常に楽しみにしておりましたが、今日はメッセージということでご容赦いただければと思います。
私にとっての渋谷というのは、実は幼稚園の頃から三宿に住んでおりまして、すごく馴染みのある場所、という印象です。私は池尻小学校というところに通っていまして、その小学校に隣接した池尻中学校では、現在IID世田谷ものづくり学校として、リノベーションされて使われています。私の建築関係の友達もIIDで活動していたこともあり、ときどき行ったりしていましたが非常に懐かしく、何か不思議な縁があるな、と感じていました。池尻小学校には一年生から六年生まで通っており、そこでは年に一回「全校遠足」という大きなイベントがありました。それは三宿の小学校から代々木公園まで、一年生から六年生まで全校生徒が歩いていくというなかなかすごいイベントでした。あの国道246号のバンバン車が通っている道の横を一年生の頃から毎年一回歩いて代々木公園に行っていた覚えがあります。多分今はもうやってないのではないかと思いますけれども、なかなか街の中では面白い風景だったなと思っています。
他にも、代々木公園のオリンピックプールに子供プールが多分あったかと思うのですが、ちょうど小学一年生に入る前くらいにそこの夏休みのプール教室に通ってまして、ポーンと放り投げられてはビービー泣いていたという記憶があります。そういったふうに、家から渋谷、代々木あたりは本当によく行った場所でした。
初めて行った映画館は東急文化会館の渋谷パンテオンでした。だから、子どもの頃映画館といえパンテオンというイメージがあったのを覚えています。
小学校卒業と同時に、私は横浜のほうに引っ越しましたが、そこは海のほうではなく田園都市線一本で渋谷まで出て来られる完全な横浜都民の生活をずっと続けていましたので、やはり渋谷は中学校・高校・大学を通してずっとよく行く場所でした。小学校・中学校くらいの時は、とにかく渋谷に買い物に出掛けることが非常に楽しみで、三つ上の姉とお金を貯めては遊びに行っていました。特に原宿竹下通りのあたりでちょっとしたショッピングをするのが非常に楽しみでした。中学校の頃も、代々木のスケートリンクに友達と通っていたのを思い出します。高校生くらいになると、渋谷には今でいうクラブ的なディスコみたいなものがあったりしてそこに遊びに行ったり、大学の頃はセンター街の中の宇田川町のところにお店がいっぱい入ったビルがありまして、そこでよくみんなで集まったりしていました。
そういう風に私は、渋谷というとパルコや西武などに行っていましたし、特別な場所というよりは自分の中で日常的になにかちょっとワクワクする、そんな場所のイメージがあります。我々はいま恵比寿に事務所をかまえていまして、写っているかわかりませんが、後ろにちょうど見えている"渋谷ストリーム"のデザインアーキテクトをさせていただいています。毎日こうして渋谷ストリームを見ながら仕事をしているわけですけれども、"渋谷ストリーム"は東急東横線の跡地に建っていて、そこから代官山の方にずっと繋がっていく。今まで渋谷というと、先ほど私からお話ししたように渋谷から公園通り、代々木から表参道のあたりというのはひとつながりで繋がって歩く楽しさがあったと思うんですよね。私もよくそういったルートを歩いてショッピングへ行っていました。今度、南街区や桜丘街区のほうも含めて、代官山の方にも繋がります。再開発をすると皆同じような均質な街になってしまうというふうに言われています。しかし、この渋谷開発とは同じような商業施設のなかにぐっと集まってしまうというよりは、相変わらず原宿の方に繋がったり、また新たに代官山の方にもずっと繋がることで新たなストリートが生まれてくる、そういう風にどんどん拡散していけるようなプロジェクトだと思っていますし、それがまた新しい渋谷の魅力に繋がっていくのではないかと非常に楽しみにしています。町歩きが楽しくなるような、そんなワクワクした場所、それが渋谷だと思いますし、小学校の頃からのそういったイメージがどんどん展開していくといいなと、渋谷に新たな期待をしています。
また、みなさんと議論する機会があればと思います。今日は楽しい会になるといいですね。それでは失礼します。ありがとうございました。
川添:ありがとうございました。
それではここからは、今日お越しいただいてる三人の建築家の他に、コーディネーターとして林千晶さんに加わっていただきまして、クロストークを展開いただければと思います。林千晶さんは(株)ロフトワークの代表取締役であると同時に、MIT(マサチューセッツ工科大学)のメディアラボの所長補佐をされていらっしゃいます。クリエイティブエージェンシーとして、領域にとらわれずに色々な価値創造のプロジェクトを多く手掛けていらっしゃいます。それでは、4名の方、ご登壇いただいてもよろしいでしょうか。お願いいたします。
【トーク】
林:それでは、今日コンディネーターをさせていただきます林です。先ほど裏の打合せでは、立派な先生方なんですが、"先生"とお呼びすると判別がつきにくいので「"さん"付けでもよろしいですか。」と聞いたら、内藤さんが「"くん"で呼んでもいいよ。"ちゃん"でもいいよ。」って(笑)(会場でも笑い)。どれで呼んだらいいと思いますか?"くん"で呼んだ方がいいと思う方、、5人くらいですか。"ちゃん"で呼んだほうがいいという方、何人くらいいらっしゃいますか・・10人くらいですね。無理せず"さん"付けでいいという方はいかがでしょう・・・・どれにしましょうね?(笑)アンケートを取らせていただきましたが、分際をわきまえずに"ちゃん"付けで呼ぶとあとでクレームがありそうなので、ここは"さん"付けで進めさせていただこうと思います。
◆渋谷のおすすめのデートスポット
先程皆さんに「私にとっての渋谷」について話をしていただいた中で思い出話がいろいろ出てきたので、都市づくりの話に入る前にアイスブレイクみたいな感じで聞いてみたいのですが、渋谷の「おすすめのデートスポット」あるいは「思い出のデートスポット」などがあれば教えていただけませんでしょうか。会場には渋谷にかかわっていらっしゃる方がいっぱいいるので、この3人のみなさんがおすすめするデートスポットがどこかちょっと聞いてみたいなと思いまして。きっと明日には会場の方々が鉢合わせしてまうかもしれませんが(笑)、教えていただけますか?まずはアドリブが強そうな内藤さんから、、
内藤:それはもうはっきりしてますよ。「ファブカフェ・・」
林:噛んでますよ(笑)!
内藤:いつも言えないんだよね(笑)。FabCafeでしょう。
林:私の母は、パブカフェって言っています(笑)。FabCafeですか。ありがとうございます。ロフトワークが経営している道玄坂を上りきった所にあるものづくりのカフェなんですけど、ご紹介ありがとうございます。
隈さんはいかがでしょう。
隈:今日は話をしなかったけど、ビリヤード屋の「淡路亭」っていまでもあるのかな。
林:ビリヤードの淡路亭・・まだありますか?
隈:駒場のほうにいく電車のガードの下のところにあって、大学時代は昔のビリヤードって割と不良っぽいところもあって、そこに女の子をつれてくと逆にその不良っぽさに、なんかいいなって(笑)。今でもあれば、淡路亭いいですね。
林:なるほど、ちょっと不良っぽさの演出で。ありがとうございます。古谷さんはいかがでしょう。
古谷:ビリヤードは、東京文化会館のこっちのほうにあった「山水ビリヤード」にはよく行きましたよ。おすすめというか、実際に無数のデートをしたんですけど、それはさておき。
林:無数のデート?!(会場で笑い)へぇ〜。
古谷:青山高校から、今でいう裏原宿のところを適当に毎回違うルートで行き当たりばったりのように通り抜けて出てくると、竹下通りまで出ます。そこで、さっきも話したロジーナという喫茶店でコーヒーを飲んで、そこからさらに通り抜けてくると代々木の体育館のところに来るんですよ。そこにはデッキテラスのようなものがあり、その前に石畳が続いているところがあるんです。広さもあるので、カップルが適当にいても全然通行の邪魔にならず、その石垣の一番先端に腰をかけてくつろげる場所があって、そこに座るのが一
番いいですね。そこから帰り道には、東急ハンズを奥に進んだ小さな道のところに「ターボラ」という名前の喫茶店があって晩御飯も食べられるので、そこまでいくとかなりフルコースに近いですね。
林:なるほどありがとうございます。無数のデートの相手も無数だったのかどうかは、みなさん後の懇親会で聞いてください(笑)。
◆大切にしたい渋谷らしさとは
ということで、ここに登壇いただいている3人の皆さん、いろいろな形で思い出深い渋谷だと思いますが、先ほどプレゼンテーションの中に「渋谷の面白さは歴史が積み重なっていることにある」というお話がありました。100年前に坂倉準三さんが作った渋谷が根強くある中で、これからの100年をこの3人の皆さんがつくってらっしゃるとも言えると思うのですが、これからの渋谷の100年を作るにあたって、何を大切にしているのか、渋谷らしさというのはどこを大切にしているのか。今回の様々なまちづくりやビルを作って行く中で、どの部分を渋谷らしさとして意識されていらっしゃるのか、ディスカッション形式で自由にお話いただけませんでしょうか。
古谷:坂倉さんの話に戻ってしまいますが、坂倉さんは渋谷にかかわる前に大阪難波の、高島屋ニューブロードフロアにかかわっていらっしゃいました。僕が新宿駅西口広場のことを調査していた際にその事実に行き当たったのですが、坂倉さんは難波の駅と周りとが渾然一体となったものをやるときに、ちょっと正確な言葉ではないんですが、ニューブロードフロアは「谷川の水の流るる如く夥しい顧客の流れがよどむところなく流れてゆかなければならない。」というようなことを言っていたそうです。その言葉のように人の流れみたいなものを建築化する、それはもう半分建築でもあるし空間でもあるような、そういうものを難波に作ったと言っていたんですね。その坂倉さんが渋谷を経て、新宿にも携わり、これらの開発は板倉さんにとってはそういった中に位置付けられているんですよ。その中で、僕がほかよりも一層違っていると感じたのが渋谷のまちであり、ここには大きな谷地形があったことから、そこに巧妙に"人々がよどみなく流れるがごとき空間でつないでいく"という発想が生まれたのではないか、それがまた渋谷の特徴を作っているな、と思うんです。
昔、僕は三宿から渋谷に来る際には路面電車の玉電(東急玉川線)を利用していて、到着駅は道玄坂の今はマークシティがあるところ付近から枝分かれして入ってくる玉電の終着駅があって、駅へ降りたらいきなりデパートの中にいるような感じでした。その後もしばらく高速バスがそこから発着していたかな。あの感じは、鉄道から駅に降り駅前広場へと流れる一般的な雰囲気とは全く違い、いきなり立体的な複合体の中に入っていく感じだったんです。バスになってからはまた少し変わってしまうのですが、あの時の感覚がすごく面白くこびりついています。今回、またもう一度それが立体化され、色々な鉄道から降りてくると、広域に複合したコンプレックスの中ににじみ出るようというよりはいきなり出るような感じの場面があちこちに出来上がると思います。それは、渋谷の遺伝子を引き継ぐものでもあるような気がしますね。
林:確かに人の流れという部分は、先ほど赤松さんも渋谷というと歩くのが楽しいとおっしゃっていましたし、内藤さんからも2年前くらいにお話を聞いたとき、人の流れが見えなかったら渋谷ではなくなってしまうからアーバンコアを設計したというようなことをお聞きしたように思います。ただ、海外の視点からみると東京の街はどこに行っても人がいっぱいいて、ざくざく歩いているじゃないかと、別に渋谷だけじゃないよと思われるかもしれないですよね。渋谷を歩いている人たちと、丸の内でザッザっと歩く雰囲気はそれぞれ別のもののような気がしますが、渋谷らしい歩きとは言葉にするとどんな感じなのでしょうか。内藤さんは、渋谷らしさについていかがお考えですか。
内藤:渋谷は、意外と人は見えていないですよ。丸の内も同じです。超高層ビルは真ん中にエレベーターなどがあるので、そこに入ると人の動きは見えなくなります。だから、低いところでは街側にもっと出てきてほしいなと思うので、アーバンコアみたいな話をさせてもらって、皆街側へとでてきてくれて、それはうまくいったかなと思っています。一度渋谷をよく見てみるといいですよ。例えば、公園通りでも1階には店舗が入っているけれど上層の方は人の動きがみえないですよね。"めくらファサード"と言って、だいたい見えなくなってしまうのです。やはり、できるだけ街に開いていくという意味ではうまいこといったんじゃないかなぁと思います。まだこれから隈さんのアーバンコアも出てくることですし、どんなことになっているのかわかりませんが、多分うまくいくと思います。そこに人の動きが見えてくるということになってくると思いますよ。
林:でも、先ほどの田村先生のお話にもあった、渋谷という街はデパートも劇場も駅も合わさっているということが描かれた絵本がすごく印象的で、当時も衝撃的だったと思うんです。私も覚えていて、駅から降りるといきなり売り場に出くわしたり。もし、現代の5歳の子たちが渋谷にきた時に、当時のように渋谷のここがすごいって衝撃を感じるのはどの部分で、どんな感覚で感じるんでしょうか。
隈:(マイクを回されて)次は内藤さんかと思っ
て話をフォローしてなかった笑 まず内藤さんから・・(会場笑)
内藤:あの絵本のように、ぐちゃぐちゃになっている感じ?
林:いや、当時の渋谷はああいう風に色々なものがめくるめくある感じだったと思うのですが、現代のこれからの渋谷を初めて目にした時に衝撃的な部分を描くとしたら、どこを絵本にしたくなるんでしょうね?
内藤:そしたらやっぱり、月並みですがハチ公前広場でしょうね。大西さんはあの広場を犬一匹しかいないってよく言ったりするけど。隈さんが東棟で超高層の計画をやっているけれど、やはりハチ公には勝てないかもしれないね(会場笑い)。やっぱり強力ですよ、あの犬一匹は。あれが渋谷のへそみたいなものであることは確かで、そこを中心としてもっとパワフルに周りがうごきまわるような場所になるので、やはりその部分を描くんじゃないですか。
林:なるほどね、犬の銅像の周りに変な格好をした様々な国の人たちがたくさんいる変な街、という印象でしょうか。あのハロウィンみたいな絵がいいかもしれないですね。
内藤:だから動物園みたいな街ですよ、クマ(隈)さんもいるし(笑)。
林:(笑)。そういうのも含めて隈さんは、今建てているビルも含め、渋谷はこれから100年どのような形容詞をもつ街になるとお考えでしょうか。
隈:先程渋谷のガード下の闇の中に白い包帯を巻いている傷痍軍人が佇んでいるという、渋谷の影のイメージの話をしましたが、近代はその陰がどんどんなくなっていっている時代じゃないですか。その中でどのようにして陰を創り、それも今の若者がかっこいいと思うような陰を創れるかということをずっと考えています。その陰と関連して、坂倉さんの建物で一番好きだったのがやはり東横線の"かまぼこの屋根"です。今度一部残すんでしたっけ?
内藤:残すはずですよ。一部、復元だけどね。
隈:"かまぼこの屋根"は細い鉄骨を組んで作られています。今は細い鉄骨を組むというのは手間がかかるので基本的に大きい鉄骨で組むのですが、坂倉さんは細い鉄骨で、ある種住宅的なこちょこちょっとしたスケールで作っていて、そういうところがとても素敵だと思いました。坂倉さんの建築物の中では、東横デパートのほうのコンクリートっぽい部分よりも、かまぼこ屋根のところが一番好きだったので、あの手作り感をどのようにしたら高層ビルの中に残せるかと考えています。日建設計さんが高層ビル全体の上層を手掛けて、僕は下層部分にかかわるのですが、地面に行くにつれて幾何学が崩れてくるようなこちょこちょした感じが出ればいいなと思っているんですけどね。
それからもうひとつ、首都高速側のファサードにセラミックプリント加工をしたガラスを見ることができます。これは要するにガラスの表面にセラミックの粉みたいなものでプリントしてテクスチャをつけるわけです。こうしてガラスのパターンを変えたり、少し濁らせるという技法は世界中で行われているのですが、渋谷で作っているものはセラミックをガラスの外側に吹き付けていまして、これが他とは随分違うんです。普通であれば、外側にセラミックのザラザラした表面があると汚れてしまうと考えて、内側にセラミックを吹き付け外はつるつるにしてしまうんですね。しかし、外側がつるつるしているとセラミックが持っているザラザラ感が消えてしまう。だから、セラミックを外側に施したいとかけ合ったところ、今回東急さんが非常に理解を持ってくれて(笑)、セラミックを外に吹き付けさせてもらいました。すると見た目がすごく違うんですよ、外と中にあるのでは。そんな風にして、こちょこちょとした手作り感やザラザラとした質感みたいなものを近代的な大きなものの中に再生させたいなと思っているんですよね。
林:共通しているのは、綺麗にまとまっているのではなくて、綻びみたいなものがどこかに見えているイメージですかね。隈さんは"陰"という言葉をお使いになられて、内藤さんは裸の人がいても許されるのが渋谷っていうイメージですよね。街を作っていく上で、ルールを作ったり整えることは簡単ですが、雑多なものをそのまま受け止めるような、今「ダイバーシティ&インクルージョン」の例も挙がっていますけど、建築としても多様性を受け止めることは物凄く難しいことなのではないかと思います。
渋谷の街の一体どの部分に、そう言った多様性を受け止め続ける仕組みがしこまれているんでしょうね。
◆渋谷は消化が高い胃袋
内藤:隈さんは"陰"と言ったけど、僕も大賛成で、僕もそういう思いで都市にかかわっていますが、計画を進めていると乾いてくるんですよ。
林:綺麗になっちゃいそうですよね。
内藤:そうですね。やはり湿り気が大事で、ときたま渋谷全体が"胃袋"みたいに見えるときがあるんですよ。そういうことを許容する胃袋のような。この胃袋はかなりすごい胃袋で、大抵のものは消化して、文化を培ってきた気がします。かなりの消化力だと思うんですよ。だから時代が変化して、かなりの異物が入ってきたとしても、ちゃんと栄養にしてしまうような胃袋に見えることがあって、それが逆にいうとダイバーシティを許しているというか、どんなものが入ってきてもいいから色々な形で色々な人が交わるということが可能になっているのではないかと思います。
林:そういう意味では、内藤さんが渋谷全体のデザインをされたときに、建築家の方もバラバラでいいし、ファサードも縦だろうと横だろうと斜めだっていいよっていう・・・
内藤:そう、隈が来ようが古谷が来ようが、小嶋が来ようが、渋谷の胃袋でみんな消化してやるって、そういうくらいの気持ちで(笑)。渋谷ってそういうすごいパワーがあるところだと思いますけどね。
林:その辺りに実際に向きあって、古谷さんいかがですか。
◆渋谷の地形が織りなすヒト・モノ・コトの動き
古谷:先ほどの、その仕組みがどこにあるかという話ですが、確かにあれだけのハイライズが6本建つというのはすごい大きな変化ですが、世界中どこの都市でも同じように建っています。しかし、これは渋谷にしかないなっていうものをやれるとしたら、僕は低層部だと思う。低層部と、変化している地形が接点を持って、どういった重なり合うものができるのか。さらに、その構造を上層で行えば、2階のデッキばかり歩いて下に降りなくなっちゃうっていうようなことが避けられるのではないかと思います。地形と複層しながら重なり合っている新しい低層部が、地形とどういう接点を持ちながら絡み合っていくのかによって、そこを上がったり下がったりしながら歩く楽しみ、そこには多種多様な人種がいたり、先ほどの内藤さんが出くわしたようなものが突如として現れたり、もう傷痍軍人は来ないとは思うけど、でも誰かがいたりするようなのが、これからの低層部がどういうふうにできるかにかかっていると思います。そして、この会場前の宮下公園のリニューアルも含めて、もっと重層的に色々なものが繋がり合うとき、やはり地上に人が行かなくなるような再開発になるとダメだと思うんです。上を渡っている人もいれば下に下っていく人もいて、地下に入っていく人もいるという構造が、どれだけ綾織りなして重層してできるかにかかっている気がします。さらにこの渋谷の平面を見ると、札幌駅前みたいな整形にはなってないので、これがまたある種の迷路性を持って錯綜した織物みたいなものができるのではないか、そこにときどき驚くような、しかし驚くけれども「あ、ここはここだ」というように場所がはっきり記憶に残せるような、そういうものがそこここに幾つか出てくるようになるといいかなと思います。
先ほどの田村さんのお話を聞く限り、奇跡的に渋谷は他にフロアがないので、地下に潜って地下の開発をしてもまだ地上に人はいて、上に上り始めても、ハチ公前では降りていて、そういった地下にも地上にも分離しきれない繋がりを維持していると思うので、これをなんとか増幅しながら再現するのがいいんじゃないかと思います。
林:あくまでも、人目線のまちづくりというのでしょうか。今日、1枚ずつスライドを出していただいたときに、実はちょっと内藤さんに期待していたのは、前回見せていただいた、どっちを向いていてもよくて、でも所々人が交わりあうのが渋谷だ、要は同じ向きなんて向く必要はなくて、人はそれぞれ、いろんな方向を向いているけれど、どこかでちょっとずつ出会っていくっていうような、そのことを皆さんがいろんな形でおっしゃっていたのかなと思います。フロアを上がったり下がったり、いろんな人間がいるけれども、全部それが人間サイズの中でのコミュニケーションをやっていくのかなと。
◆いまの渋谷でやりたいこと
そういう渋谷のまちづくりをしている中で、2年後にはもうオリンピックが来るわけですが、そこでひとつ聞いてみたいなと思います。今、渋谷で何をやってもいいと言われたら、何をやりたいですか。なぜこの質問をしたかというと、私はやはり、渋谷のスクランブル交差点は世界中のアーティスト達がアートやパフォーマンスなどの色々な実験をやりたい場所だと思うんです。あの場所が世界のアートの実験場になればいいなと思っていて、どのようにしてそういった場所を使えるようにするかということを考えつつ、オリンピックを機にその後世界のアートはあの地点から始まるという場所にできたらと、そんな実験を私はやってみたいなと思っていたりするんです。これは建築的実験でも文化的実験でも構わないのですが、みなさんでしたら何をやりますか?
これは、では隈さんから!
〈アイデア1〉音があふれる劇場の街
隈:今回は聴いていた(笑)
そうですね、基本的に谷が持っているスリバチみたいな構造を利用して、音楽や音で繋がるというのは面白そうですよね。現代では、音のイベントを行うことがものすごく難しくなっていて、都市の中で音を出せないじゃないですか。そこで、渋谷だったら音を出してもいいっていうふうにならないものかと。区長さんもいらっしゃるし、そんなふうに思っているんです。渋谷の地形は世界の都市の中でもすごく珍しい地形で、エディンバラが少し谷みたいな地形を持っているけれど、上下はあの劇場的につながっているような感じではないですね。そんな、すごく珍しい場所だから、こういったところで音をガンガン出したりして。逆に、物理的な音は出さなくてもそこに参加している人間が何かつけているとか、、、
林:最近のテクノロジーだとサイレントディスコ的なものがありますよね。
隈:そんなことができたりしても面白いですね。そういうことをやってみたい気がしますね。
林:でも、確かにせっかくの渋谷なのでサイレントではなく本物の音が溢れて、まちが劇場みたいになったらいいですね。それは是非とも、本日は渋谷区の方やいろんな方たちがいらっしゃると思いますが、、、隈さんおすみつきですし、どうでしょう。
いかがですか?
〈アイデア2〉思いがけない瞬間に出会える街
古谷:やっぱりこの街には、リアルで思いもかけないものに直接出くわしてしまうようなそういう楽しみがほしいと思います。予定したものに会いに行くというよりはたまたま通りがかったら何かすごいものに出会ってしまうという体験ができるといいですよね。僕も一度、全く不用意にその日がハロウィンだということを忘れたまま帰ってきてしまったことがあって、とても家まで辿り着けないような驚愕な日がありました。これは僕が不用意で忘れていただけなのですが。
でも、突如として思っても見ないことが、渋谷らしく元気にドカドカ起こったらいいと思うんですよね。アートにしてもパフォーマンスにしても、気づいたらこんなものが出現している。かと思えば、それはある一定期間で消えているというような。まさに隈さんが言われたとおりなのですが、町中がステージになり、そのステージもパフォーマンスがあれば路上ライブもいっぱいあるといいですね。イベントも、「渋谷ズンチャカ!」くらいの音楽祭はすでにできるわけだから、それをそこかしこで思わずやっているとかですね。それ以外にも、何か自演的なアートが出現して消えたりする、そういうようなことを許容する街になるといいのかなと思います。
それから、ガイドがあったりする食べるイベントが増えてもいいですね。そういった元気のいいイベントがほしいです。
先ほど、玉電が分岐して入ってくる話をしましたが、その向こうにはおそらく内藤さんが行かれたストリップ劇場があると思いますが(笑)、僕はそこには行ったことはありませんがすぐ脇のムルギーというカレー屋にはよく行ったんです。そんなふうに、いろんな目的の違う人が平気で横に並んで、同じ場所に入り混ざっているという姿が渋谷の魅力なんだと思います。そういうのを作りたいなと思います。
内藤:何をやってもいいの?
林:何をやってもいいです。
内藤:予算に限りなく?
林:予算は内藤さんの場合は10億円以内で(笑)
〈アイデア3〉ひばり号から見下ろせる街
内藤:そんな、、、(笑)
1日だけ、あのハチ公前やスクランブルも含めた周りが全く違う光景に見えるイベントをやりたいですね。
それは、プロジェクションマッピングなどでもいいし、とにかく全く違って見えるようにしたいという欲望はありますね。
もしくは、10億もあるのであれば、そんなにかからないと思うんですが、さっきケーブルカーの話が出たけれど、何号っていうんだっけ?
林:ひばり号ですね。
内藤:隈さんの建てられた超高層の上に展望台があるので、そこからロープを引っ張ったら面白いですね。
昔はそんな遊び心があったと思うんだけど。あの感じですね。
林:なぜ、昔はできていたのに今はできないんでしょうね。
内藤:なかなか難しい法律があるので・・・
林:法律の問題なのですか?技術的に、どう考えてもひばり号のほうが落ちて危なそうじゃないですか。今の技術であれば大丈夫そうなのに今できないのはなんでなのかなぁって。
内藤:いろいろ行政区分があったり、役所の方がそれはできないと。自分の敷地だったらできるかもしれないですけど。
古谷:やっぱり元気の問題じゃないですか?
林:元気?
隈:内藤さんが言えばできそうな気がする。内藤さんが言えば絶対できるよね!
林:あと防災訓練という名の下に、隈さんのビルから、、、
内藤:ひばり号があったほうが、助かるよね。
林:ひばり号があったほうが助かりますよ、絶対!
内藤:ケーブルカーってそれほど機能的には人を運べないから、機能論としては無駄なんだと思うんだよね。だけど、あれに乗ると今までに見たこともないような、体感したことのないような渋谷が体感できると思うのです。だから、ひばり号に乗るのに一人1万円でも僕はいいと思うんだよね。ああいうものがあると、これまで見てきた都市とは全然違う都市が見える気がする。10億も使えるなら、隈さんのビルの上からひばり号を引っ張ってくるというのがいいですね。
古谷:せっかくなら何本もかけてください。一本じゃなくてもう縦横無尽に(笑)
隈:古谷さんのビルのところからも(笑)
内藤:冗談を言ってるみたいだけど、実は南米の都市などでは、ケーブルカーが都市再生のテコになってるんですよ。僕が通ってたメデジンという町は、川添くんも行っていたけれど都市再生をケーブルカーでやって変わってきてるんですよね。違った視点で自分の住んでる場所を見たりすることはとても重要なので、ひばり号の案がオススメです。
林:内藤さん、是非やってくれませんか?
内藤:区長さんはもう帰っちゃったからなぁ・・(笑)
林:縦横無尽にひばり号が張り巡らされれば、今の子どもたちが渋谷を見た時に「超高層ビルの間を縫って見下ろせる渋谷街」といったような物語が生まれそうな気がしますね。隈さんのところからが無理だとしても、川だったりどこかでなんかできそうな気がしますね、ぜひ!
内藤:今日は東急の方もいらっしゃっているので、隈さんの超高層からヒカリエはできるんじゃないの?(笑)
隈:できそうな気がする。
林:ではそれは別途、、。でも、こんなふうに聞いただけで楽しそうと思えることは、大切な気がしますね。
◆渋谷にかかわれてよかったと思えるための要素
あともう一つお聞きしたいのですが、先ほど大西さんが、渋谷に生まれてよかったという思いを毎日抱いて生きているとおっしゃられていました。この国に生まれてよかった、この地にかかわれてよかった、そんなふうに理由なくよかったと思えることはとても素敵なことだと思います。
渋谷という町ではこれから高層ビルもでき、それにかかわる人や働く人もますます増えていくと思いますが、この渋谷という場所で働けてよかった、この地にいれてよかったと思ってもらえる人がこれからも増えていくために、考えなければならない大切な要素とは何かということを議論してみたいと思っています。この国も、私たちもリアルに歳をとっていく中で、渋谷の地に限らずこの地にいてよかったと思えるにはどんな要素や気持ちが大切なのか、ソフトな面も含めてどんな要素を抑えておけばよいのかということを聞いてみたいです。ちなみに、大西さんはなぜ渋谷でよかったと思われるのか、また、どんな瞬間によかったって思われているのか教えていただけますか。
大西:実際に全国各地の商店街に行き他の商店街を見てまわることがよくあるのですが、その後渋谷に戻ってあのハチ公前広場に降りると「ああ、戻ってきた」とホッとするんですよ。ところが、このことを知り合いにいうと、こんな人混みの多いところでよくホッとするなと言われます。それでも、やはり自分は海外も含めて全国を回り歩いて戻ってくる時、渋谷の人混みだけでも、先ほども「犬一匹」と言われましたが、その犬を見ただけでホッとする。全国各地の商店街を渋谷と比較して回り歩く道中で、やはり渋谷が一番居心地がいいとどこかで思っているのかもしれないですね。当然、今の渋谷は本当に恵まれていると僕自身も思っています。それも含めて本当に楽しい町であり、だからこそ先生方に議論していただけるのだと思います。地方の一町で、街に関する議論をしたとしてもこれだけの人が集まるというのはほとんどないのではないでしょうか。これは渋谷だからこそできることだと思います。
林:いつまでもお若いのは、今言っていたように楽しんでいらっしゃるからだと思うのですが、どんな楽しみをしていらっしゃるのでしょうか。
大西:渋谷は、歳は関係ない街ですね。僕は今年で70歳になりますが、3日前にぎっくり腰をやりまして、先ほども挨拶でフラフラしてしまいました(笑)。渋谷とは、内側の人間が歳をとったとしても外ではしっかり皆に楽しんでもらえる街であるという意識を持たないといけないですね。行政を含め我々商店街も、それからここにいる事業者の皆さんも、努力をする必要がある点だ
と思います。
林:ありがとうございます。
岸井さんにもお話しいただきましょうか?(笑)
内藤:そうですね、岸井さんにも渋谷を語ってもらいたいと思ってたんだけど(笑)
岸井:みなさん渋谷がホームの方ばかりなので、今日はすごくアウェイ感があるんですよね(笑)僕は神戸から来ているので、渋谷よりは下北沢のほうに馴染みがあるような人間かと思います。でも、みなさんのおっしゃる通り渋谷は色々な他人がなんでもできるような場所で、それが今後とも続くことを是非期待したいし、そういうものに少しでも参画できればと、私自身はそれが楽しみだと思っています。
林:少し、つっこんだ質問をしてもよろしいですか?「みんなが色々なことをできる街」とは、合言葉のように言っているだけでリアリティがないものなのか、それともそんな街がリアルに続くために仕込んである仕組みや仕掛けがあるのでしょうか。私自身、渋谷は本当に多様な街だと思うのですが、それが自ずと形成されてきたものだとすると、いつかなくなってしまいそうで怖いなと思ってしまいます。もし、実際に多様な街であり続けるためにこういった仕掛けがあるというものがあれば、教えていただきたいです。
岸井:僕が答えて大丈夫ですか?アウェイの人間としては、仕掛けを仕込もうと思ってはいるがまだできてないと自分では思っていることがあります。僕が渋谷の街についてみなさんと色々議論する際に、正直に言うとデパートの建て替えをしている気はありません。もっと広い視点から、渋谷というエリア全体が世界の人から見て行ってみたい・住んでみたいと思えるような街を東京の中に作りたいと考えています。そういう意味では、その足がかりになるであろう、この周辺に多くある大使館の方たちと上手く連携できていないと自分自身で思う節があります。本当は、次はそういったことを意図的に仕組んでいくことが、おそらく外からの刺激となり、街の内側からのエネルギーになる、そういうことにつながるんじゃないかと思っています。
林:ありがとうございます。ではもう一度、ステージ上にお話を戻したいと思います。
内藤:質問は、渋谷がなんでそんなおじさんが言うみたいにいいかって?
林:この地にいてよかったと思える要素はなにか、それをどう渋谷で大切にしていけばいいかということを聞きたいなと思いまして。
内藤:少しネガティブなアプローチになるんですが、3.11の後に辛いことが多くあり、この国の社会や、社会制度といったものは賞味期限切れなのだろうかと思ったりすることも多くありました。しかし、渋谷はどいうわけか他の街と違ってそういったことから免れているような感じがあります。渋谷はその免れている部分が少しホッとさせてくれているのかなという気がするんですよ。四角四面で決まりごとが裏にたくさんある雰囲気ではなくて、渋谷のちょっと混乱した感じが色々なことを許している気がして、救いというんでしょうか。大西さんがおっしゃっていた感覚とはまた少し違うかもしれないですが、日本というどうしようもない国にできた真空地帯みたいなイメージでしょうか。さっき隈さんが陰とおっしゃっていましたが、そういった感じがあるんですよね。それは残していってほしいと思います。
林:古谷さんにうかがう前に、少し話させていただきたいのですが、去年中国の成都へリサーチに行った時、東京の多くの街よりも中国の田舎町の方が、特に歳をとってから過ごすにはいい街だなというふうに感じました。朝8時過ぎに街を歩くと、おばちゃんやおじちゃんたちがじゃらじゃらと麻雀をしているんですよね。おばちゃんは「私は90歳だけど、麻雀があったらボケないわよ!」と言っていて、囲碁をやっている人もいれば、公園ではみんなが孫の見合い相手を探すための紙を貼り出して、来る人来る人に「うちの孫はどう?」と声を掛けている人もいました。あれもこれもやってはいけないとか、嫌なことをする人は建物の中に隠れてくださいというような感じが全然なく、本能を出していい街といった印象でした。
対して日本では、なぜ電車内で食事をしてはいけなくなったのか、携帯で大声で話すのはマナーとしてよくないにしても呼び出し音が鳴った瞬間にギロッと睨むようになってしまったのはなぜなのか。渋谷が、そういった部分も「まあ人間だからね」って思う街であり続けられたら、私はそんな街に住みたいと思っています。でも、日本の街がなぜそのような雰囲気に変化したのかがわからなければ、渋谷が本当に多様性のあるまちであり続けるかどうかもわからず、規則やルールが次々に定まれば一瞬にして渋谷の文化はなくなるのか、谷である限り、川がある限り、どれだけルールができても変わることはないものなのか。今日、3人の先生方に色々とお話をうかがいましたが、まだ私の中でも解けていない状態です。そういった点も踏まえて、この街にいてよかったと思える街の要素やルールとはなんだと思われるのか、少し大きめにまとめていただけると嬉しいです(笑)。
古谷:ますます難しくなってきましたね(笑)。
確かに成都と重慶の間の、羅城鎮というまちですごい光景をみたんです。その地には舟形の広場があるまちがあり、中央に櫓みたいなステージがあって何か行うんですよ。その両側がアーケードのようになっているのですが、そこにはびっしりとテーブルが置いてあり、観光客ではなく地元の人たちがびっしり座り込んで麻雀のような不思議なカードゲームをやっているんです。もう90歳を過ぎたようなおばあちゃんなどもやっていて、お腹がすけば何か食べるお店もあり、店の一角では鳥かごの中に入ってた鳥をいきなり捕まえて「これ食べる?」というような感じで首をちょん切るといった、ワイルドな空間がそこに広がっていて、町中のリビングルームのようでした。そのカードゲームをやっている90歳のおばちゃんの前を子どもが走り、そこに世代の差はないし活力は溢れ、地元の人と観光客の区別もなく、誰もが食べ日用品も買うことができ、猥雑にみえるけれどすべてがそこにある楽しさで、何をする街・これをする場所という概念がないのです。やはり、渋谷はそういった街であってほしいと思います。先ほど食べるイベントの話をしたけれども、それはオープンカフェといった気の利いたものだけではなくて、もっと街中でムシャムシャ食べているようなものがガイドに溢れるようなところもあってもいいと思っています。皆が織り交ぜになり、そこに老若男女、色々な人がすれ違うようにして暮らしているようになれば、丸の内や新宿や池袋にない、他にはできない渋谷にしかないものができると思うのです。渋谷が新宿や池袋といった街と何が違うかといえば、これだけの交流人口の多い繁華街を持ちながらも高級住宅地が並ぶ松濤・代官山・広尾といったエリアがすぐ脇にあるところだと思います。山手線の中を見渡してもこんな街は他にないんですよ。そういう土地の特性からすると、あらゆる階層の人や、外国人も含めていろんな人がごちゃまぜになっていられる街がここにできると、それが魅力になるんじゃないかと思います。渋谷には今後グレードの高いオフィスが多く並ぶと思いますが、これがオフィスとしてグレードが高いとか、景色がよく快適といった点だけではなく、ビルから降りてきた足元にはそういう多様的な街が広がっているという、これがオフィスとしても一つの魅力になってほしいです。そこに訪れてくる人は、先ほど低層部と言ったのはそういう意味なのですが、上に上がらない人でも、ここをさまよい歩いているだけで思いもかけないものに出くわし、ムシャムシャ食べていたり、楽しみに溢れているという街になってもらいたいなと思いますね。
林:ムシャムシャ食べているような、猥雑さみたいなものですね。ありがとうございます。
そろそろお時間が参りました。
◆これからの渋谷像
先ほどの自己紹介の中でも、オリンピックの建築を見たことがきっかけで建築家になったというようなお言葉がありましたが、もしかすると今日ここにいらっしゃる建築科の学生の方も、あるいは本日の議論をした内容をどこかで読んだ誰かが、建築家を夢見るかもしれない未来に向けて、
改めて渋谷がどんな街になってほしいか、実際に街をつくるという行為にかかわっていらっしゃる3人の皆さまから、渋谷という街に思いを込めて一言ずついただいて、このトークセッションを締めたいと思います。
では、古谷さん、隈さん、そして内藤さんにまとめていただくという形で、一言ずつお願いします。
古谷:正直に言うと、オリンピックがまた日本に来るとは思っていなかったです。1964年のオリンピックは本当に印象的で、先ほど元気が違うという話もありましたが、当時家の前にはまだ玉電が走っていて、皆で花電車を見送った記憶があります。その後は、首都高とその下の新玉川線といった地下鉄を作るために起こっていた大渋滞の中を、それこそ三軒茶屋から渋谷までの間が東急バスの車列で繋がってるんじゃないかと思うような渋滞で毎日高校に通っていました。そんな中でもとにかく元気があって、その元気がこれらを建設するというある種のバイタリティがあったと思うのです。そして、当時の時代に生み出せたものと、今度のオリンピックに向かって生み出すものは、なにか相当な質的な差がある。しかし、差はあるとしても、50数年前にやっていたものとはちょっと違う意味で成熟していて、技術面もICTや様々なものがかつてとは違う状態にあり、この時期だからこそできることがあるのではないかと思っています。せっかくオリンピックという号令がかかったのであれば、都市は未だ複雑なままだけれども、IoTやICTといったものによって混乱せず困らずにその中を楽しくさまよい歩けるというような、あの頃とはまた違う街をつくっていければいいんじゃないかなと思います。
林:ありがとうございます。続いて、隈さんお願いします(どうぞと手を指す)。
隈:林さんがおっしゃっていた、携帯電話の呼び出し音が鳴っただけで睨まれるというのは所謂監視社会みたいなものですが、郊外住宅地や都心の大企業のオフィスみたいなものも、ある種監視社会ですよね。渋谷はその真ん中にいわば真空状態で存在して、こういうあり方とは世界の都市の中でも意外にないのではないでしょうか。
林:そうですね。
隈:今パリでは、都心部の土地の値段が高くなりすぎたために、日本に並んで複数中心のような山手線的な都市構造を作る「グランパリ」というプロジェクトを行っています。しかしグランパリの候補になっているパリの駅には渋谷的な真空さはなく、やはり郊外か都心かのどちらかに分類される面があります。東京でいうと六本木などに大きな開発はあるけれども、それはある種都心の拡張となっています。渋谷はこれらとは違って、他にはない真空的なものとか谷的なものをどこまで守れるかということが、僕は日本の未来にとって一番重要だと思いますね。
林:ありがとうございます。
内藤:僕は先ほども渋谷は胃袋のようだと言ったけれど、少しその胃の働きが弱くなってくるとまずいなと思っています。やはり胃袋を健全に保ってどんなものがきても消化できる状態をつくってもらいたいものです。それから、やっぱり渋谷という街は解けない謎であってほしいと思ってるんです。
林:渋谷が、渋谷らしくある理由が解けない謎であってほしいと。
内藤:そうですね。渋谷には他にもいろんな謎がたくさんあって、そういった謎がある街というのが渋谷であると、そういった位置取りがいいような気がします。わかりやすい街をつくるのはやめて、あえて謎を増やしていくといった雰囲気がいいんじゃないでしょうか。ハチ公だって、あれも一つの謎じゃないですか。ただのあの犬の像がどうして街の顔になっているのか謎以外の何物でもないでしょ。質の低い謎ではなく、こういった謎がたくさんあれば渋谷のパワーも落ちないような気がするので、是非とも謎を残す解けない街になっていってほしいなと思います。
林:真空地帯であったり謎であったりということを含めて、やはり谷の構造によって見渡せないが故に様々なものが至る所に隠れていて、100年前に仕込んでいたものもまだまだ残ったまま積み重なっていくという街のあり方が、渋谷らしさなのかなというように、話を聞きながら改めて思いました。同時に、皆さんの渋谷が結構古いものというか、私がみたことのない渋谷の話、すみませんちょっと言葉が見当たらなくて素直に言っちゃいましたが(笑)、私はこの景色が逆にいいなと思いました。日本は高齢化が進んでいて、私が言っている訳ではないのですが、よく邪魔なおじさんが多い社会だって、ね?文句が出ることもあるんですけど(笑)、何歳になっても、こんなに第一線で渋谷という世界に代表する街をつくっている人たちがいるということが渋谷の面白さだし、日本の未来だなと思います。
今日お話を聞いて思ったことは、そろそろ我々の出番は終わりだなんて思わずに死ぬ瞬間まで働き続けて、是非とも中国よりもよっぽど、70、80、90歳になっても楽しめる空間がいっぱいあるという場所を仕込んでいってください。私も、一緒に仕込みたいですね。油断すると、10代20代の「若い子たちの渋谷」になってしまいそうですが、それだけではなくて、陰に、裏に、谷に、70、80歳になっても楽しめる街があることが、やっぱり真空地帯の胃袋としての渋谷だと思うので、ますますこれからも活躍して引っ張っていただきつつ、若い人たちはそれに負けじと、また10代、20代、30代の渋谷も積み重なっていく。これからもそういった重なりのある渋谷であり続けることがいいなと、お話を聞いていて思いました。
本日のトークセッションは、私も含めてみなさんが好きなことを言わせていただくというトークセッションになりました。改めて、3人の素敵なパネリストの先生方に拍手をお願いします。どうもありがとうございました。
川添:林さん、ならびに3人の建築家の皆さまありがとうございました。
ちょうど時間となりました。最後に、先ほども少しクロストークでもお話しされていましたが、日本大学教授で本実行委員会の副委員長をしております岸井よりご挨拶と、コメントを申し上げたいと思います。
挨拶・コメント
岸井 隆幸(副委員長/日本大学理工学部教授)
今日は立ち見の方もいらっしゃるくらい大変な満席で、ありがとうございます。渋谷が動き出してからもう10数年になり、shibuya1000も10回目を迎えることとなりました。
shibuya1000は、このような渋谷を語る機会を作り出して、渋谷自身を考え続けようというような意義のイベントだと思っています。田村先生から渋谷の歴史の話を聞かせていただいて、最後のトークセッションでは4人の方々が死ぬまで頑張るという言葉をお聞きし、また、何か仕掛けを作られればとおっしゃっていたので、ハチ公の前に4人の方で麻雀ができる卓を置こうかと思います(会場笑)。それくらいはできると思いますので、今度は雀卓を囲んで、色々と語り合っていただければと思います。
今日はこのあと先生方にも残っていただいて、少し懇親をする時間がございます。本当はこんなこと聞いてみたい、あるいは渋谷のここっておかしいんじゃないか?といったご意見がある方も大勢いらっしゃると思いますので、是非この機会に、各先生方にご注文をつけてください。先生方はまさしく渋谷を作っていらっしゃるわけですが、渋谷は先生方のものではなく、我々のものにしなければいけません。今日は登壇された方々のホーム感が随分ありましたので、アウェイの我々も頑張るべく、是非皆さんもご注文をつけていただきたく思います。
また、shibuya1000にご期待いただきまして、渋谷が益々よい街になりますようにご一緒に頑張っていきたいと思います。今日は長時間、どうもありがとうございました。
川添:ありがとうございました。
ではこれをもちまして第1部を終幕とさせていただきます。
引き続き20:15より第2部を開始させていただきます。
それでは最後に今日ご登壇いただいた皆様に、もう一度大きな拍手をお願いいたします。(拍手)
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